

先週の休日、堺南宗寺など見学さましたが、武野紹鴎や千利休が、わび茶を
大成されたらしく色々興味があり、土曜日の午前中お勉強に行きました\(^o^)/
世界最大級の墳墓・仁徳陵古墳のある堺。
平安時代、この地が摂津・河内・和泉の3国の境に位置しているところから「さかい」と呼ばれるようになりました。鎌倉時代には漁港として発達し、戦国時代、堺は貿易港として黄金の時代を迎えます。
豪商・納屋助左衛門ゆかりの大安寺やキリスト教を初めて伝えたザビエル来堺の記念碑が建つザビエル公園など、豪商達が集い自治を行った町人文化のまちです。
さーてわび茶てどういう意味?
茶の湯とわび茶の違い?
”茶の湯”とは、お茶を楽しむこと全般をさします。
一般的には室町時代に、楽しみとして上流階級(武士、公家、富裕な商人)に
広まったもの。
”侘び茶”とは千利休が、茶の湯から遊びの要素と切り落として、
精神的なものを追求したもの、その流れを汲む茶の湯ということです。
お茶の飲むことの伝来は奈良、平安時代に記録がありますが、
茶の湯が、上流階級で社交として広まったのは室町になってからです。
中国(明、宋)からの禅宗文化とあいまって、現在のゴルフのように
接待や仕事の付き合いを含めた上流階級の社交の場となりました。
中には、闘茶と称して、茶の種類や水を当てる賭け事まではやり、
高価な金品や、領地までかけたので、室町幕府は禁止令まで出しています。
また、茶道具にも中国からの渡来品(墨蹟、絵画)や青磁、磁器など高価な
道具を飾りました。こうした流れは戦国大名にまで引き継がれ、織田信長は
茶道具集めをしたり、部下への恩賞にします。
利休の侘び茶は、こうした豪華さを競う茶に対して、精神性を追求して
出てきました。 従来の”茶の湯”が応接間である書院で行われていたのに
対して、4畳半、最後は1畳という狭い、草葺で土壁の茶室をつくり、
その中で、亭主と客が静かに時間を過ごすことが侘び茶の精神です。
席中が狭いので、正座の習慣が始まったのも侘び茶によるものです。
(それ以前はあぐら)
また、書院の茶では台子(だいす)と呼ばれる漆塗りの台に、皆具(かいぐ)と
呼ばれる一式の茶道具(雛人形にある茶道具に同じ)を用いますが、
侘び茶では棚を用いず道具を運び出したり、簡素な棚を用います。
書院の茶では茶碗を卓に乗せますが、侘び茶ではそのまま茶碗で出します。
道具の従来の中国伝来ではなく、国焼きと呼ばれる国産の茶碗や茶入れを
用いたので、国内で陶芸も発展しました。
利休は、豪華好きな豊臣秀吉と対立し切腹しますが、侘び茶の流れは
子孫の宗旦に引き継がれ、現在でもその末である表千家、裏千家、武者小路千家
などに引き継がれています。
ということで、わび茶とは 道具の豪華さや、派手な趣向を競うのではなく、
精神性を追求した、簡素な茶であるといえます。
とは言え、現在では千家系の茶会でも、道具や着物の華美を競う人もおりますので、
侘び茶であるかは、結局はそれぞれの心のなかになると思います。
まぁ?難しいことは、おいといて、千利休さんは、高価な豪華な中国からの唐物などつかわず、信楽や備前などの器や漁師の道具をもちいて、あえて
4畳半くらいの小さい空間で、あえて質素に、茶室では、皆平等で、精神的なことを大事にしたらしいです
なるほどなるほど、身近なものや食材など、もっと沢山色々な料理が出来る可能性を感じました\(^o^)/